COLUMN
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日本人は人にものをあげることが好きな民族である。
お中元、お歳暮、旅みやげ、お祝いもの、手みやげ、おすそわけ、などなど。さまざまな季節や機会を踏まえた贈り物がある。これが海を越えたところでは、むやみやたらと他人に物を贈ることがなくなる。それだけに私たち日本人は贈り物に慣れてしまい、時にはありがたさが薄れてしまっていることもあるだろう。そもそも人に物を贈るという行為は、形式、儀式、風習にとらわれず本当に自分が好きなものだから、あの人が好きなものだから、という価値観に基づき真心を込めて喜びをわかち合うために行うのが、私の理想である。
言葉や物質で事を済ませるだけでなく、贈り物や礼や心を込める事は、日本人ならではの美徳であり、そんな日本に生まれたことを誇りに思う。 -
人生において、出会いや別れはつきものである。私は早くして父親を亡くした。
経済成長時代の真っ只中で父は仕事が忙しく、家ではほとんど会うことも会話もなく過ごしていた。それでもたまに時間ができると仲間たちを集めて夢を語ることが好きで、若者には人気もあり理解のある人だった。そのような姿を、私は反抗期だったこともありあまり好意的には思えず、争いが絶えなかったことを思い出す。ある日、父は突然この世を去った。幼少期を除き、私からは父との接点を設けることもなく、親孝行もできなかった。もっと真剣に向き合い、いろいろ語り合っておけばよかったと後悔が先立つ。これも私が二児の父になり、痛いほど親の気持ちがわかるようになったこともあるのであろう。
今は彼とより近い関係にあるような気がする。
私が何かに迷った時、空を仰いで父に尋ねるとーーー右に行け左に行けと、声が聞こえる。”私にとってあなたの存在は今でも大きいです。おやじ、ありがとう。出会えて本当によかった。”
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お正月イベントで作品に使用するススキの採集をしている。当初は2万本ぐらいで……と考えていたが、実際に採集したススキを並べてみると、5万本以上は必要だとわかった。時間を見計らい、長野、千葉、町田など地元の方々のご好意と協力により足繁く採集に通う日々が続いている。
大人一人が1日、使えそうなススキを選別しながら刈り込んで、いいところ2千本ーーー気が焦る本数である。そんなある日、花市場の帰りに、私の目に上質なススキの群生地が飛び込んできた。思わず心の中でここだ!と叫んでしまった。早々にその場所に向かったところ、東京港で働く日雇い労働者の人々が集まるプレハブ小屋が何棟もススキに囲まれて建っていた。手ぶらはまずいと思い、近くで饅頭を買い、「すみません、ここのススキを刈らせていただけませんか?」と親方らしき人に頭を下げたところ、「それは受け取れない。ここは俺たちの土地じゃないからな。」でも、誰かが育てているわけじゃないから、好きなだけ刈っていけよ。何本必要なの?」恐る恐る、「2万本くらいですかね……」すると、オジサンたちは目を点にして、「それは大変だ!おいみんな、手伝ってやれ!!」。この日の採集は思いがけぬ本数となった。
ススキの大作を手がけることで、思いもよらぬ心温かい人々と出会えた喜びで満たされている。助けてくれた皆さんに恩返しできるように、一本一本のススキに感謝を込め、2009年の幕開けにふさわしい感動してもらえる作品を作らなくてはという気持ちでいっぱいだ。
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一日24時間、一週間7日、一ヶ月約30日、一年365日、春夏秋冬、暦はバランスよく進行する。時の経過の節目があるからこそ、程よく気分転換ができたり、飽きを感じることなく日々を過ごすことができるのかもしれない。それも一日一日を大切に生きて初めて、充実した一年になるのは言うまでもない。
過去のことを引きずったり、未来のことばかり気にしたりしていると、今日の自分の存在が不鮮明になってしまいがちだ。
花の世界にいると、特に暦を大切に考えなくてはいけないのだが、多くは季節はずれの仕込み仕事をしている。だから人一倍、今日という日の体感や旬を大切に思うのかもしれない。過去の経験を生かし、未来に夢や希望を抱き今を生きなくてはーーーそんなことを考えながら今日も2010年のカレンダーの作品作りをしている。
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毎年野菜を育てている。
日頃、切り花を扱うことが多い私にとって、食べるという目標に向かって愛情をかけながら命を育むプロセスには、また違った楽しさがある。毎日定時に出勤帰宅できないだけに、うまい野菜を作るには家族の力が欠かせない。毎朝晩の水やり、追肥、剪定、ツルを支柱にくくりつける作業。まさに野菜がもたらす家族の深い絆作りなのだ。トマト・キュウリ・ナス・ニラ・シシトウ・ネギーーーどんどん大きく育っていく。収穫は、食べごろを迎えた野菜に気がついた者が採ってよいことになっている。ただし家族全員で食するのが基本。形は悪いが、どれを食べても自ら育てただけに格別な味がする。
野菜から受けた情操教育は将来、私たち一人ひとりにとって良き思い出以上のかけがえのない大切な、生きる味となるに違いない。
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テレビの中で、人の人生をああでもないこうでもないと得意気に語る人がいる。語ることは簡単ではあるが、その内容に責任を持つということはかなり難しいことで、よほどの無神経か自意識過剰でなければなかなかできないことでありーーー人ごとながら気にかかる。
なぜテレビで語るのか、もちろん見る人がいるからである。それだけ多くの人が他人の生き方に野次馬的興味を抱いているわけで、これはまさに暇としか言いようがない。いや、だからこそこのような番組が成り立っているのであろう。
私にはどうでもいい番組に思え、むしろ自分自身の生き方を追求することで日々精一杯なのだ(しかし、最後までこの番組を見てしまった私はいったい……)。
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いろいろな花がさまざまな環境に咲くこの地球。もし花がこの世になかったら、さぞ寂しい世界になるだろう。私は花をいけるとき、この花たちが自然界ではどのような環境のもとで咲いているのかを、よく考える。
もちろん市場に出回る花は、野生原種ではなく栽培されたものなので判断は難しいが、寒さや暑さ、感想や湿度を好むくらいは自然を観察していれば、おおよそ見当がつく。
そして、例えば北が好きな花と南が好きな花をいけるならば、自然界では決して隣り合わせに咲いたことがないであろう花同士を出会わせたいという想いを抱きながら、デザインを進めることもある。
花の気持ちはわからないがーーーそのフラワーデザインによって初めて出会えた花の喜びを感じた時、私は使命と、責任ある花文化を全うした喜びとで心が満たされる。
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フラワーデザインという文化が西洋から日本に紹介されて、半世紀が経つ。それ以前はフラワーデザインのことを花卉装飾と呼んでいた。フラワーデザインが爆発的に我が国で発展を遂げた時代背景には、女性が社会進出への夢や希望を抱いたり、日本人が西洋への憧れを強く感じていたり、お稽古や習いごとがもたらすステータスや自信を身に付けたいなどの気持ちが、今以上にあったのだと思う。
そして今、時は流れ、時代は変わり……男性よりもより多くの女性がいきいきとし、自国や個人に対するプライドが高まり、自分自身に必要な知識や情報をいち早く手に入れることができるようになった。
しかし、時代を超えた普遍的な価値観もある。花は美しい。自己実現の追求をしたい。楽しく生活したい。これらの価値観を大切に、花に携わってきた私の普遍的な価値観は「人を感動させ、感動したい」という、感想をわかち合う喜びである。
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今日は超多忙であった。
朝から途切れることのない打ち合わせ。カレンダー・雑誌・ポスターなどの撮影。月刊誌のための表紙デザインの制作。デモンストレーションの準備。明日に回せるものなら良いが、時間が待ってはくれない内容ばかりがたまたま重なってしまったのだ。ふと気がつくと静まり返ったオフィスの窓に三日月様がこうこうと輝いていた。
そういえば朝から何も口にしていない。愛用のバイクにまたがり、いざラーメン屋に……。満たされたお腹にさわやかな風、そして見上げればあの三日月様が相変わらず優しく微笑んでいる。心を亡くしていた忙しさがささやかな幸せに変わった。
明日はどんな日になるかな……。 -
私が花粉症に悩まされて早8年。今年も鼻がうずく季節がやってきた。どうやら私の鼻はミモザ・ミズキに弱いようだ。年によって重症、軽症は異なるが、いずれにせよ2〜3ヶ月は快適とはいえぬ。
”私は花粉症ではない”と誇らしげに語っていた者が”今年から花粉症になってしまった”と聞くと、またひとり仲間が増えた喜びで、ついにんまりしてしまう。その反面、密かにこの症状からの早期脱却を願っている自分がいるのだ。
今年は今のところまだ鼻がうずかない。もしかして……期待に心はずむが、この症状は花業界で生きている勲章にも見え、私の気持ちはぐらついている。
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渋滞に巻き込まれた車の運転は何かとイラついてしまう。何時までにどこどこへいかなくてはならない目的があると、なおさらそうだ。
この間、時間を無駄にすることなく冷静に時を過ごすことができればよいなと、数ヶ月前からあることを実行している。それは、車の中から自分の視界に入る植物を車が40キロ以上で走行できるまでに、20種探すことだ。これがなかなか難しいが、おもしろいのだ。つい目配りに集中しすぎて、後ろの車に意地悪いクラクションを鳴らされる。
みんなイライラしているのはわかるが、鳴らし方にも気品と思いやりがあるものだとーーー集中していた気持ちが乱れる。そんなとき、脇道から一台の車が私の前に割り込んできた。心落ち着かせつつ譲った後、”ありがとう”といわんばかりの長い点滅シグナルが私の心にささやかな安らぎをもたらす。「あれ…いくつまで植物の種類を数えていたのだろう?」ーーーまだまだ未熟な己の精神性に再度イラつく。
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知り合いが入院したという知らせを受けた。
日頃病気にかかるような性格と体つきではなかったので少々動揺したが、見舞いに行って隣の人と楽しそうに会話をしている彼の姿を見て、安心した。
どう考えても花には縁が内容な男だったので、私はサイドテーブルに大急ぎで制作した見舞い花のフルーツバスケットアレンジメントをおいた。
彼はまだ熱があるにもかかわらず、みかんの皮をすばやく剥き、あっという間に2個を口の中に放り込んだ。よほど喉が乾いていたらしい。その後、自慢げに隣へ果物をお裾分けしていた。まさしくこの男、”花よりだんご”である。数日後退院したという連絡が入った。
「ありがとう!!果物の周りの花の香りが懐かしかった。隣の人も北海道出身で花について長時間、語り合うことができて退屈しのぎになったよ。」意外な彼の言葉に新たな一面を発見、人は見かけによらないものだと己を責めた。
その後も彼はお隣さんを連絡を取り合っているらしい。
きっと、花と果物が人の縁を深めたのだと、自分の仕事に更なる誇りを感じた。 -
若き日の私はいろいろな所に気の向くまま着地する放浪癖があった。あの頃は怖いものもの知らずに好奇心がついつい増長し、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。
しかし今は自分以外の数多くの責任を抱え、できること、できないことの判別をしてから行動をとる生き方モードに変化している。「まあいいか……あの頃の体験や経験が今の私にポジティブな力を与えてくれているのなら。」
そんなことを考えていた矢先、いつの間にか庭にムラサキハナナの花が咲いていることに気が付いた。今まで一度も庭に咲いたことのない花だ。おそらく風に乗って種子が庭に着地し、開花したのだろう。そんな風まかせで自由な植物の生き方に、今の私はあこがれる。
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おはよう・こんにちは・さようなら・ありがとう・いただきます・ごちそうさま、などの言葉は、私にとって生きる基本である。
どんなに知識豊富で才能豊かな人であっても、目と目を合わせ人に自分の意思を伝えたり、人の考えや思いに耳を傾ける気持ちがなければ、それはただの身勝手な一人芝居に過ぎないような気がする。
植物相手の仕事もまずは植物と向き合い意思を通わせ、何を表現したいか?どのような特性を持ってるか?ーーー などのコミュニケーションを図る。
そして、ひとりでは決して成し得ない新たな形と心を共に育むことができた時、お互いリスペクトしあえた喜びにありがとうと感謝の気持ちで熱くなる。 -
先日、中学卒業以来、初めての同期同窓会が行われた。
三十数年ぶりの再会者も多く、顔と名前はなかなか一致しないまでも頭の中の遠い映像に残る表情や出来事とともに、じょじょに記憶が舞い戻ってくる。オタケ・ワッチン・セッチャン・ターボー・・・・・・さん付けからいつの間にか当時のあだ名でいい大人が呼び合う利害のない関係。しばし時の流れすら忘れ、昔の思い出話に花が咲く。かたや、今そして未来を語れば、価値観が大きくずれている人もいてーーー 花はつぼむ。でもみんなおじさん、おばさんになって元気でいる。それだけで私は幸せな気持ちになった。
卒業式の日にクラスみんなで植えた記念樹の桜はどうなっているのか?つい気になり会を抜け出し、私の足は母校に向いていた。
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フラワーデザインを手がけるうえで、いくつかの大切な要素がある。使われた花材、花器が違和感なく作品として一体化しているか。左右上下前後のバランスがいかに美しく演出されているか。花はどのように水をもらい、息づいているか。作品が生活の中でどのような目的や状況に対応し、存在価値を示せるか。作者は花を通して、作品の中に何を訴えたかったのか。
などなど、いくつかのポイントをクリアしなくてはならない。しかし、これらをクリアしたところで、出来上がったデザインを取り巻く人々がどれだけ花に興味を抱き、花のある暮らしに感謝できるかが最も大切であり、花もそれを望んでいるに違いない。
花に携わる仕事とは、いかに花ごころある人々を増やしていけるかにかかっているのだ。
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男女が夫婦となり永遠の愛を誓うことは、時の感情の盛り上がりや勢いに助けられ、その場で言い切ることは出来るが、生涯お互いを深く理解し、共に円満に過ごすことは、かなり困難を要する。
男性にとって100%女性を理解する努力は出来たとしても、その本心は一生わからないものだ。女性もまた、男性に対して同じことがいえるのではないだろうか。
性の異なる他人同士が一緒になり、少しでも快適に生活するためには、お互い100%を求めるのではなく、相手の才能や良いところだけを見つめリスペクトし、あとは見のがす勇気を持つことがパートナーに対する愛情であり、最も大切なことのように感じる。ところで、この文章は誰に向けて書いているのだろうか?ひょっとしたら、私自身のような気がしてきた。
ーーー これからご結婚なさる皆様、末長くお幸せに。
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私は過去の扉を開くことができ、未来への鍵を与えてくれる化石が大好きだ。
そこにはロマンがあり、日頃の悩みや苦しみなどが小さなものに感じられ、心が癒される。今でこそ、なかなか化石採集には出かけないが、数年前まではよく山梨県大月や長野県戸隠などの場所に運んだものだ。鑑賞する楽しみはもちろんのこと、採集する楽しみは宝物探しのような、遠足前夜に似た”ワクワクドキドキ”の感情の高まりを感じる。
そういえば昨今このような楽しい興奮がないと思っていた矢先、新宿にある高層ビルの大理石壁面にアンモナイトの化石を発見した。感動、感動。なんだ遠くに行かなくても、ロマンを抱ける場所は近くにもあったんだ。その後、都会の高層ビルを見るたびに、”ワクワクドキドキ” ーーー胸が高鳴る。
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長崎にあるハウステンボスへ仕事に出向いた。
そこは草花が無限に広がるヨーロッパの街並みを再現した異空間だ。良く見かける中途半端な外国文化のモノマネとは違い、どこをとっても見事だ。むしろヨーロッパの佇まいより美しいかもしれない。そして、このレジャー施設には派手な乗り物やハイテクアトラクションはない。それだけに、私にとってはすこぶる心地よい。広い空を流れる雲、光り輝く海に跳ねる魚、多彩な植物の美しさや香りの豊かさ、のどかな鳥のさえずり、石畳をゆく馬の軽快な足音、すがすがしく濃い空気、さわやかな笑顔あふれる宿泊先ーーーー心がただただ癒される。ハイテク時代だからこそこのような空間が新鮮に感じられ、私の五感を素朴に満たしてくれる。
仕事も終わり、二日ぶりに園外に出た。
そこにも園内に勝ると劣らぬ美しい日本の風景が広がっており、今まで体験したことのないカルチャーショックを覚えた。
ーーーなんと幸せな夢のようなひとときであったことか。 -
住宅地にドカンと広がる空き地で草野球をしている少年を見かけた。そこには立ち入り禁止の囲いもない、なんとも懐かしい光景だ。野草はそこそこ茂り、少なくとも数ヶ月はこの状態であったと思われる。
私は、この土地のずさんな管理状態に思いを馳せていた。しかしその瞬間、時代の流れの中で私自身が侵されてしまったことにハッと気づかされた。
小さい頃、あちこちに点在していた”野っはら、原っぱ”に、人様の土地などという概念はなく、自分たちの自由な遊び場と解釈していた。ところが今は、空き地ができると高い塀で囲われ、あっという間に家が建つ。いたしかたない現状ではあるが、人様の土地で多くを学ばせてもらった私にとって、この土地のずさんな管理がすばらしいものに感じられるのだった。
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私は小さい頃から職人の世界に憧れ続けてきた。
たくさんの道具を腰にぶら下げ、器用巧みに柱の上を動き回る大工。縁側に腰を据え弟子とお茶をすする休憩時の植木屋。白い鼻緒の雪駄に足袋をはき手編みのマフラーを首に巻いてパチンコ打つ料理人。そんな思いもあって、高校時代は仲間二人と家の近くの和食小料理屋でバイトをしていた。もちろん仕事は皿洗いと調理場の清掃に明け暮れる毎晩だ。板長・煮方・焼き方の先輩とは直接口もきけず、使い走りのお兄さんからすべてのお叱りや指示を受けるわけで、憧れとはほど遠い厳しい大人の世界だった。唯一の楽しみといえば、毎日同じではあったが、半丁の冷奴、味噌汁、おかわり自由の白米のまかない食。あっという間に月日は流れ、店を辞める当日初めて板長さんが「兄ちゃん、ありがとさん、助かったよ達者でな」と言ってくれて嬉しかった。
そのひと言は今も私の花人生をも支えているようにも思われ、当時憧れて買った白い鼻緒の雪駄を無性に履きたくなった。
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日も暮れた上海に到着した。そこにはどうだとばかりにまぶしいほどの照明がきらめく高層ビルが立ち並んでいた。かたや一歩ビル群を離れると、なんとも懐かしい黄昏れ色の優しい光に染まった、良き昭和の日本を感じさせる街並みが点在している。二つの大きく異なった環境は、まさに新旧の狭間にある時代を思わせ、どちらかといえば、私には後者の方が心地よく感じられる。
”明”という漢字は、日と月で成り立っている。日中は太陽の光を、そして夜は月の光をとーーーー先人は考えたのだろう。24時間眠らぬ街は多くの人々の生活を支えていることも事実ではあるが、人以外の多くの生き物にとっては、いかがなものであろうか。
本来、文明の進歩とは行きとし生けるものが安心して過ごせる地球づくりと思いたい。帰国後、煌々と輝く駅前の薬局に身を置く観葉植物を見て、なお一層その気持ちを強くした。
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毎年いけばなコンクールの審査をしている。フラワーデザインの分野の私がいけばなの審査に携わらせていただけることは大変恐れ多きことではあるが、高い敷居を越えて花を愛するものとして認めてくださったことに感謝をしつつ、日本の花未来に明るい希望を感じる。昨年のコンクールの審査講評で、あるいけばな界の先生が「いけばなは引く文化。フラワーデザインは足す文化。」とおっしゃった。だが、私にはどうしてもそう思えない。
花の美しさや魅力を抽出するためにはまず引いてみる。そして、その作品では使えなかった削ぎ落とされた花のパーツをドライにしてみたり、メカニックスのカバーリングにしてみたりとーーー決してすべてを無駄にすることなく、足したり、割ったり、掛けたりして再利用することが、いけばなとフラワーデザインにおいて、花の命を大切に扱う今日の姿だと考えているのだが……
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花にはいろいろな色がある。そして、その色は四季折々に美しく大地を染め上げる。けっして私たちが真似できない才能にいつも癒されている私は幸せこのうえない。
先日、あるニュースが私の耳に入ってきた。某企業が開発した青いバラが、花として初めて日本グッドデザイン大賞を受賞したという事だった。しかし、実際そのバラを目の前にしたとき、まるで造られた花のように感じてしまった。優秀な技術者の方々が必死な思いで作り上げた命に対して大変失礼な発言ではあるが、どうしてもそのようにしか思えない。
今は亡き私の尊敬する植物学の先生が言ったことを思い出す。「植物には青い色はあまり必要ないよ。だって空と海がとっちゃったんだから」私は青い空を眺めながらその先生の笑顔を懐かしく思い出すのである。
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街に出る。漢字、ひらがな、カタカナ、英語、ローマ字、和食、洋食、中華、エスニック、日本犬、マルチーズ、チワワ、チャウチャウ、国産車、ベンツ、アルファロメオ、プジョー、キャデラック、木造、鉄筋、レンガ、ガラス、世界各国の切り花、鉢物、枝もの、花木、多彩多様なファッション……意外な発見というより、ごく当たり前として捉えてしまっている環境だが、東京は世界に類のない摩訶不思議な街だ。
そして、まぎれもなく私はこの街に生まれ育ってきた。自分自身のことはよく見えないものの、これほどおもしろい街なのに、なぜかここに住む多くの人の表情や表現が乏しく感じられる。物質や環境の豊かさに頼りすぎて自分を見失っているのかはわからないが、楽しいのか、嬉しいのか、おかしいのか、悲しいのか、おいしいのか、まずいのか ーーーー表情や表現で素直に語ってほしい。
同じ時間を共有する仲間として、自分らしく生きてほしい。たった一度しかない人生だからと、頭ではわかっているが、これがなかなか難しい。これは私自身が自分に言い続けていることでもある。
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ついこの間、正月を終えたばかりと思っていたが、もう年の瀬が目前にやって来ている。年々一年が早く感じられるのは歳のせいなのだろうか?
しかし、一年365日とは実にうまくできている。今年一年を振り返るにも、来年こそはと希望を思いつらねるにもちょうどよい長さなのではないだろうか。もし、この区切りがなかったら私などは、へとへとに疲れてしまうに違いない。さて、私にとってのこの一年は、やたらと忙しく充実してはいたが、胸が熱くなるような喜びや今を生きているという幸せを実感する心の余裕が持てなかったように思う。
これじゃいけない。来年こそはと再び同じことを肝に命じる。
そして、また新たな365日がやってくる。 -
仕事がら地方によく出かける。
多くの地域は町から山並みが見え、車を少し走らせれば豊かな野原が目に入る。なんとも都会に住む私にとってはうらやましい限りの光景だ。つい車のガラス越しに「あの植物をデザインに使いたいな」と心の中で叫んでいる。
しかし、その地域に生活している人々にとっては、あまりにも当たり前の環境なのであろう。私たち生き物は残念ながら近くにあるささやかな幸せが見えなくなっているのではなかろうか。当たり前 ということは思考を狭め、新しいデザインを生む上での障害になっているような気もする。遠くにある文化に憧れるのもよいが、身近にもたくさんのチャンスが転がっていることを私は大切に考えて生きたい。
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私が初めて関心を持った植物は、大切に育てていた鶏に餌として与えていたハコベラである。毎朝、路地裏に咲くハコベラを探し採集することが日課であった。幼いながらにも鶏が好んで食べる美味しそうなこの植物の色や形、そしてほのかにただよう青臭い香りを求めてひたすら歩いたものだ。
そして今、違った目的意識を持って植物や自然を求めている自分がいる。
ふと路地のハコベラに目を向けると、ハコベラは幼い頃見たそのままの姿で今もたくましく生き続けている。しかし、花市場や花屋に並ぶ多くの植物は、茎が真っすぐで葉のばらつきもなく、みんな同じに見えてしまう。もちろん花を生産出荷するにあたって、いろいろな問題や条件があるのだろうが、植物が本来持っている姿やかたちの魅力に注目してみてはいかがなものか。自然植物採集がなかなか出来ない時代だからこそ、今後の花生さんのあり方に変革をとー生け手の立場で望むのは無理なことだろうか。
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最近、街角で花束を手にしている人をよく見かける。色とりどりのラッピングペーパーに包まれた花たちは、どのような目的を果たすのであろうか?
私の好奇心は掻き立てられる。おおよそ花を持っている人の服装や表情で花の役割は想像できるのだが、花のデザインやラッピングのあり方に疑問を感じることが多い。
花をただの”もの”として束ねた作り手の愛情が感じられない姿や、花の持つ色合いや形状を無視したラッピングにはほとほと心が痛む。花は”もの”ではなく”いきもの”である以上、花同士の出会いの尊さを考えてデザインしたり、花がここちよいと思われるラッピングを施すことが花に対する人としての誠意でなくてはならない。
そして、花がその気持ちを受け入れた時、花は自分の役割や立場以上の力を発揮するに違いない。
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水と大気をたたえる地球は、私たち生きものすべての”すみか”である。地上、水中を問わず生きものすべては与えられた環境に対応しながら精一杯生きている。
人もこの星に生まれ、いつしか大地に根付く植物と出会った。花と人とが関わってきた歴史を振り返ればきりがないが、この世で生まれた花文化の大半が植物本意という発想ではなく、人のために考えられたものであったようにも思える。
大地から切りはなされた植物の居座る多くを人は花器に委ねる。しかし、その花器のバリエーションが質感や形の変化にしかすぎないものが多いことが気になる。
より花の気持ちになり、彼らにとって居心地のよい機能や環境を思いやった”花のすみか”を地球上の仲間として考えていかなければ……という思いでいっぱいだ。
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アナログ中心の時代に生まれ育った私は、急速に発展するデジタル社会に戸惑いつつも必死にしがみついている現在である。少なくとも私が花と出会い、語り合い、デザインをほどこすプロセスにおいてデジタルの力は不必要だ。しかし、その花をもっと深く知りたい時やより多くの花の魅力をわかち合いたい時などはデジタルが役立つこともある。
デジタルに委ねていいことと、決して譲れないことを区分けしなければ、ついつい知識や情報で頭の中をいっぱいにしてしまうだけで、行動がもたらす観察力や想像力がおろそかになってしまう。
私にとってフラワーデザインとは、足で多くを学び、体験から得た知識を活用しその行為がうまく表現に結びついた時、花とともに生きている喜びと生きがいを強く感じることなのだ。